[前文・その他に関する自由討論]
○枝野委員
いろいろここで議論を聞いておりますと、私の頭の中も整理をされてきたりとかする話もありまして、国民の義務とか責務という話が出てきて、私は、憲法の趣旨からすると、公権力行使の限界を定めたというか、国民が公権力に対して権力を与えている授権機関であるという観点から、違和感を持っておりました。
ただ、いろいろ聞いておりますと、恐らく国民の義務とか責務とかということについては、要するに、我々国民はこれこれという責任を自覚しとか、我々国民はこれこれという責務を自覚しとかというような規定を憲法に盛り込むということであるならば、憲法の持っている法的性格や意味と、それから、義務とか責任とかということが必要ではないかという主張とが両立をするのではないだろうか。単純にこれこれの義務を課すということだとすると、では、だれがだれに課すんだということになり、憲法の意味からすると、国民自身が国民自身に課すという話になってしまいます。
そこは、単に義務とか責務という言い方ではなくて、義務を自覚しとか、責任があることを我々は確認しとか、主語はあくまで国民自身であるということの意識を明確に持てるならば、場合によっては、ある特定の責務について憲法典に規定をする、前文に規定をするということはあり得るのかなというふうにお話を伺って思いました。
それからもう一点、これは特に自民党の皆さんに耳の痛いお話かもしれませんけれども、どうもいろいろな話が出て、家庭崩壊とか地域崩壊とか、モラルが下がっているとか教育が崩壊をしているとかという話が、特に自民党の皆さんから出てくることに対して私は物すごく違和感を感じております。
それは、私たち、私自身も十二年間国会議員をやっておりますし、そのうち三年半は与党でしたから、私自身も責任の一端がありますが、現行の憲法は、別に、家庭を崩壊させろとか地域を崩壊させろとか、モラルなんかなくてもいいだなんということを命じてはおりません。家庭的価値を維持すること、地域、社会をよりよくすること、教育をよりよくすることは立法、行政の範囲の中で自由にできる。
しかも、この憲法下における六十年間のうちかなりの長い部分は、自由民主党の皆さんが国会の過半数を占め、内閣を占めてきているわけでありまして、現憲法下における六十年を全面的に否定できる国会議員や政党があるとしたら、それは日本共産党だけではないのか。少なくともある段階までは、やってきたことはよかったんだ、まず肯定的にこの憲法下における六十年間を評価するところから始まらないというのは、余りにも自信喪失過ぎるのではないだろうかと思います。
これまでやってきたことは、家庭、地域、モラル、教育をよくするために最大限の努力をしてきたけれども、時代がこういうふうに変わった、社会状況、国際状況がこういうふうに変わったからこういうふうに変えなきゃいけないんじゃないかとか、そういう議論であるならばあり得ると思うんですけれども、あるいは、私自身はこの十二年間、自民党にかわる政治構造をつくらなきゃならないという意味では、ある程度は現状を否定する、今はよくないということを言える立場かもしれません。
それでも私も、実は、戦後の少なくとも昭和四十年代ぐらいまでの自民党政府のやってきたことを、日本社会のあり方というのを肯定的にとらえた上で、時代状況の変化があるから変えなければならないということを申し上げているので、自民党自身の皆さんが余りにも自分たちがやってきたことを自己否定し過ぎるというのは、非常に違和感を感じるところでありまして、ぜひともそこのところは、過去を否定するのであれば、むしろもっと自己反省の言葉が伴わなければいけない。何か他人事のようにおっしゃると、やはり違和感があるなというふうに思いますので、そのあたりは、きちっとした整理、自民党御自身が戦後やってきた政治に対する自信というものをもうちょっとお示しになった方がいいのではないかと私は思っております。
伝統、文化の話については、先ほど来何人かおっしゃっておりましたが、大事だと思いますけれども、何をもって歴史、伝統と言うのかということ自体が一様ではないというのはもう紛れもない事実でありまして、余り強調し過ぎる、あるいは書き方を相当工夫しないと、かえって議論を混乱させるのではないかと思います。
最後に、公明党さんが憲法については加憲という主張をされておりますが、全体についてどう考えるかは別として、前文についても同じような思想をちょっと模索してみることはあるのではないか。
つまり、歴史的な文書として、昭和二十一年の時点での今の前文は、これは一定の意味があったし、一定の宣言として残しておく価値はあるのではないか。もし改正をするのであるならば、改正文の一番冒頭に改正に当たっての前文というのをつけるということが、例はないかもしれませんけれども、決して否定されるものではないんじゃないか。六十年たって今の時点で我々はこう考える、だからこういう改正をするんだという前文を新たに加えるということは検討の余地があるのではないかと申し上げたいと思います。
以上です。
<省略>
○枝野委員
今の中谷先生のお話は一般論として大変もっともらしく聞こえるんですけれども、家族を大事にしようということ自体は私も否定するものではありませんけれども、例えば家族を持ちたくても持てない人が世の中にたくさんいるんですよね。
例えば、今少子化の話をされましたが、子供を産みたくても、いろいろな肉体的な事情で子供を産めなくて苦しんでいる人たちが世の中にたくさんいるんですよ。こういう人たちが将来独居老人になる可能性がたくさんあるんです。家族を持ちたいのに持てないという可能性がたくさんあるわけです。あるいは、こういう世の中ですから、例えば家族が、一人だけ残して、例えば最近でも、殺人事件などの被害でそうなっている方とかいらっしゃいますけれども、家族を持ちたくても、事故などで家族がみんな死んでしまったなんという人たちは世の中にたくさんいるんですよ。
この人たちのことを考えたときに、よほど気をつけて家族を大事にしようという価値については規定をしないと、この人たちを排除するというか、この人たちにますますつらい思いをさせる。子供を産みたいけれども産めない夫婦、あるいは、家族をみんな事故などで失ってしまった独居でいる人たち、こういう人たちへの配慮というものを十分に考えた上で、どうやって家族的価値というものを社会の中で大事にしていくかということを気をつけてやっていかなきゃならない。そこには相当慎重な配慮が必要であるということを申し上げておきたいというふうに思います。