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 議事録


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衆-憲法調査会


平成16年10月28日

[国民投票制度に関する自由討論]

○枝野委員
 民主党の枝野でございます。

 発言を許していただき、ありがとうございます。

 私は、まず、一般的な意味での国民投票についてお話をしたいと思いますが、我が会派の田中議員から幾つか御指摘をいただいた点に加えてもう一つ、今の政治、これからの政治を考えたときに、国政における国民投票制度の活用というのが必要ではないかという観点からもう一つの視点を申し上げたいと思います。それは、二大政党制による政権選択、そして、それがマニフェストによって国民にきちっと政策のメニューを示した上で選挙を戦う、こういう仕組みができ上がりつつあるということ、これが実は、国民投票を国政においても活用せざるを得ない状況を生み出すのではないかと思っています。

 それは、御承知のとおり二大政党で、そしてマニフェストでありますから、マニフェストのすべてに国民が賛同してどちらかの政党を選択するということにならない部分があります。八割、九割はこのマニフェストに賛成だけれども、一点、二点は反対である、だけれども、二つに一つを選ぶという中ではこちらを選ぶ、こういうような選択をせざるを得ないことが必ずこうした形では出てまいります。

 そのときに、マニフェスト選挙をしっかりやっていく上からは、多数派、つまり与党自身がみずから掲げたマニフェストと違うことを政権の中で行うならば、それはマニフェストに基づく政権選択という選挙の質を変えてしまうことになりますから、与党みずからが国民の意思がこの部分だけは違っていると思っても、みずから変えることはやはりやるべきではないだろうというふうに思います。

 しかしながら、国会で与えられた多数と国民の民意とのずれがそうした問題で認識されたときに、そのときには、この部分に限っては、国民の意思を問うことによって、マニフェスト選挙、二大政党で示された国民の意思と各論部分について、ここは違っているんだよという国民の意思とのずれを修復する民主的機会をつくるということの必要性が出てくるのではないだろうか。そういう観点から、二大政党、マニフェスト型の政治においては、マニフェストの八割、九割は賛成だけれども、一割、二割は反対だ、こういう部分のところをしっかりと吸い上げて、それを結果に結びつけている仕組みとしての国民投票制度というのは、一定程度の役割がこれから出てくるのではないかというふうに思っておりますので、そうしたことを憲法上しっかりと位置づけていく必要があるのではないだろうかと思います。

 ただし、この場合には、これは田中委員からも御指摘がありましたが、少数意見という問題もありますし、もう一つは、それ以上に少数者の人権にかかわる問題、この部分のところは、それが特に国民投票によって少数者の人権を侵害するような法制定が行われる、こういう場合には、なかなか憲法裁判所や最高裁なども動きにくいだろうというふうに思いますが、そこのところは、特に憲法裁判所などの機関が、そうした直接民主主義的手法であっても少数者の人権を侵害することはできない、この部分のところをしっかりと担保する仕組みが裏づけとして必要なのではないかと思っています。

 まだ五分になりませんので、憲法九十六条に基づく憲法改正の国民投票について一点、皆さんの議論に加えて申し上げたいことがございますが、それは、先ほど保岡委員からは国政選挙と同時にやるべきではないと。これは見識ある御見解だと私も思います。二大政党で政権を選択するという意思と、それから憲法を改正するという意思とでは、かなり意味が違ってくると思いますので、同時に行うべきではない。この部分は、憲法九十六条からも立法府の選択で決められることですので、そうすべきであろう、国政選挙とは一緒にやらないということをすべきだろうと思います。

 もう一つ、その活動であります。どうしても我々は公職選挙法というものが前提になっていてしまいますので、公職選挙法を引っ張ってくるような形で憲法改正の国民的議論を縛るようなことがあってはいけないだろう。公職選挙法は、まさに村会議員の選挙などだと百票とかそういうレベルで当選できる、あるいは国政選挙でも十万とかという数ですから、例えば買収とかという仕組みが可能であり得る仕組みでもあります。しかしながら、国民全体の過半数を得るための選挙というのは、そんなみみっちいような話ではありませんし、そしてもう一つは、何よりも政治そのもの、国民の政治活動そのものであります。

 したがって、もし憲法改正の国民投票法をつくるのであれば、その活動といいますか、国民の議論、その部分についてはほとんど規制をかけないというようなことの見識がないと、この部分のところでその議論が国民の間でできないということになりかねませんので、この点はきちっと留意する必要があると思います。

 以上でございます。

<省略>

○枝野委員
 まず、ほかのことから申し上げようと思ったんですが、今の坂本委員の御発言のうち、この調査会が憲法改正を前提としてというのは、調査会設置のときの経緯、事実関係から全く違っております。自民党の皆さん、ぜひそうした前提事実をわかった方を委員に選んで発言をしていただくようにしていただきたい。

 念のため申し上げますが、民主党や私自身は今の憲法を変えるべき部分があると考えていますが、個人の変えるべきであるという主張とこの会の位置づけとは全く違うものでありますので、ぜひその辺の区別はしっかりとつけていただきたいというふうに思います。

 その上で、委員間に若干誤解をお与えしているかなと思いましたので、また札を立てさせていただきましたが、私も、マニフェストは体系的なものであって、マニフェスト対マニフェストでぶつかり合って、である以上は、基本的には一貫性を持って、部分部分を切り張りするようなことがあってはいけない、全く同じ立場でございます。

 ただ、もちろん一体性を持ったマニフェストの中にも、まさにその理念、哲学と真っ正面から結びついている部分と、どちらかといったら外周部のところで、この部分は違う選択肢もその哲学の中にもあり得る部分、こういう濃淡はあり得るんだろうと思います。そうした本質からちょっと遠い部分のところについて、実は、全体の体系はこれでいいんだけれども、この部分だけはというようなことはまれにあり得ることだと思いますし、またそれがポピュリズム的な観点ではなくて、実はマニフェストのこの部分は両方あり得たがこっちを選ぶべきだったかななどということを与党としても考えるようなケースというのは、まれにあり得るのではないだろうか。

 そういった場合に、逆にマニフェストというものの一体性から考えると、与党みずからが国会の中で、やはり我々のこの部分だけはちょっと変えたいとかということで物が決まっていくよりは、全体として信任を受けた部分の中でここだけは変える余地がある、もしここを変えた方がいいという国民の声があるならば、そこは国民投票でどうでしょうかということを問う余地があるということはあってもいいんじゃないかということを申し上げましたので、むしろ一体性を持たなきゃいけないということを前提で申し上げたつもりでございます。

 ですから、本当にレアケース、例外的なケースであり、またマニフェストの本質、中心部分に近いところの政策でそれをやったら、それこそむしろ内閣不信任をされなければならないケースだろうというふうに思っております。

 それから、先ほど来、ポピュリズム的にあるいは全体の整合性とか、そういう御意見が若干出ていますが、少なくとも国政についての国民投票を導入する場合においては、やはり何を国民投票に付すのかということ自体を国会が自律的に判断していくということが前提にならないと、要するに、国民にとって耳にいい話ばかりが継ぎはぎされて合成の誤謬が起きるということはあってはならない。

 しかし、この部分はどちらの選択もあり得るなという政策課題というのは十分あり得るし、先ほど田中委員からもありましたか、脳死の問題がかつてありましたけれども、あのようなケースなんというのは、やはり国民に問う仕組みがあれば、非常にいろいろな意味で前に進みやすかっただろうというふうに思いますので、そういうことについての余地は、議会の、国会自身の自律的判断ということを前提にして進めていくということは、この議論の当然の前提だというふうに私は思っております。

<省略>

○枝野委員
 三度目になりますが、御指名ありがとうございます。

 先ほど坂本委員から、憲法改正国民投票についてかなり縛りをかけた方がいいという御発言がございました。その中で取り上げられた住民投票についての具体的な問題は、一定程度私も認識するところであります。非常に狭い範囲で、特定の非常に狭いテーマについて行われる住民投票については、完全な活動の自由ということが逆に私生活の平穏を脅かすというおそれがあるということに対応せざるを得ないということは、私も全く可とするところであります。

 しかしながら、まさに憲法改正国民投票は、そうしたミクロのレベルの話ではなくて、全国民が対象の幅広いものになります。しかも、まさにこの国の形をどうするのかということで、例えば、メディアであったり、憲法学者であったり、有識者であったり、この調査会でもそうした人たちからたくさんの意見を聞きながら議論を進めてきています。憲法改正の国民投票が行われるようなケースにおいては、そうした多様な立場からの多様な声が国民的な議論をつくり上げていく上で当然に自由に発せられなければなりません。

 今、公職選挙法ではメディアの報道について一定の制約がされておりますが、それは特定の人を選ぶという部分のところからの一定の制約としてやむを得ない部分がありますが、憲法改正については、そうした規制はかかるべきではないだろう。そして、メディアであったり有識者などが自由に憲法について議論するということを保障する以上は、個人が個人として周辺の皆さんに説得をする、あるいは意見を述べるということについても規制をすることは当然できないだろうし、個人に対して規制をするなら、メディアや有識者に対しても規制をしなければおかしなことになってしまうということにもなりかねません。それでは国民全体でつくり上げる憲法ということにはならないというおそれになってしまいます。

 したがいまして、例えば、脅迫によって投票とかあるいは買収そのものはということはあるかもしれませんけれども、普通の選挙あるいは非常にミクロで行われる住民投票と違って、憲法改正の国民投票法がつくられるのであれば、こうした投票についての政治活動の自由というのは相当広範に確保されることが前提でなければいけないと思いますし、私個人の見解から言えば、もし今おっしゃられたような相当限定的な現行の公職選挙法に準じたような改正手続に基づく改正国民投票を行うのであれば、私はそれには反対であります。きちっとした、オープンの国民投票が確保されることが憲法改正を発議する前提条件でなければいけないというふうに思っています。

 それから、改正手続条項九十六条についていろいろな御意見があります。日本の憲法が硬性憲法で、検討の余地があるということについては私も否定はいたしません。しかし、この戦後六十年近く憲法改正が行われなかったということの理由について、しっかりと歴史は、ここは認識をした方がいいんではないか。

 それは、やはり改正手続がハードだったからということよりも、この間、憲法を変えようよという世論が必ずしも過半数を超えているような状況でなかったという歴史的な背景があり、逆に言えば、ここ十年というべきなのか、このところいろいろな、憲法と社会の実態との乖離の中で、変えないといけないよねという国民的な空気がある程度上がってきたときには、むしろ、この国会、調査会での議論でも、どちらかといえば変えた方がいいんではないかという議論の方が多数を占めているという状況になってきている。そうした民意の背景、憲法制定権力である民意の背景が、この間憲法改正というものにつながってこなかった背景にあるのでありまして、手続そのものに求めるということは少し違うのではないだろうか。

 そして、私は、最後につけ加えますと、もちろんケースによっては、国民のぎりぎりの過半数でも変えなきゃならないというケースはあるかもしれませんけれども、憲法という国の基本にかかわる重要問題であります。国民投票をしてみないとどちらに転ぶかわからないというようなぎりぎりの国民投票というのは、できるならば避けた方がいい。本当にそれがやむを得ない、国際状況、社会状況の中でやむを得ないというケースであるならば、それはあっても、あることを否定しませんけれども、できるだけ国民的なコンセンサスをつくって、そしてその民意を確認する手続としての国民投票が行われるというようなプロセスを少なくとも努力する責任は我々にはあるのではないだろうか。

 そういうことを考えると、三分の二という条項は、私は絶対変えちゃいけないとは思いませんけれども、一定の合理性はあるということを前提に検討した方がいいんではないかと思っております。